陸前高田市で震災を語り伝える男性の活動に密着しました。

「根元まで津波来ています。その証拠がこれです。」
 陸前高田市・高田町で生まれ育った釘子明さん53歳。全国から訪れる人々に、「あの日」を伝える語り部だ。この日は、横浜にある神奈川大学の学生相手に陸前高田市内をガイド。震災前と震災後の街の変り様を明らかにするためDVDで在りし日の高田を映し出す。
「これがJRの陸前高田駅。残念ながら今は線路も全て流されてしまいまして」
まず最初に巡るのは、津波の爪痕がくっきりと残る場所。

「ここの場所で津波が来た高さ、どれくらいかというと13.7mです」

あの日、陸前高田では、市民体育館や市民会館など、市が指定した避難場所で多くの人命が失われた。この避難所の設定に関し、市は多くの批判を浴びた。しかし釘子さんの考えは違う。

「自分の街の避難所に行った事ある人いますか?ある方は手を挙げて下さい」

避難所に対する、日頃の無関心。それが震災の被害を大きくした。普段の生活の中で、家族全員が自覚する必要がある。避難所は、本当に安全な場所にあるのか?

「行政機関・病院・そういった避難所は安全な高台に置くような街づくりを、あなた達若い方々にしてもらう」

多くの人命失われた被災現場を目の当りにして学生達は。

「やっぱり地元でも避難所については一応知ってるけど、それが本当に安全かどうかなんてちゃんと調べて無かったなって」
 「ここまで津波来てるっていうの を実感するとどうやって生き延びていけばいいのかなって考えました」
陸前高田で生まれ育った釘子さんは、盛岡や陸前高田などで30年以上ホテルマンとして働いた。あの日、当時79歳だった母親と命からがら高台へと逃れた。
「釘子さん大津波が来たからみんな逃げてー。本当に鬼気迫った」

 震災直後は、避難所の運営に奔走。避難所が閉鎖されると、ガイドとして語り部の道へ。

2013年3月、自宅跡に、NPO法人 被災地語り部くぎこ屋を設立した。

「亡くなった同級生たちがお前ならできるからと言ってくれたんじゃないかなと思いました」

口コミやネットを通じてガイドの依頼が相次ぎ、これまで3000人を超える人々に、自らの体験や信念を伝え続けてきた。

「子供達が動き始めて、みんな上向き始めました」

被災現場を巡るばかりでは無く、講演の依頼もしばしば。この日は、ボランティア活動で高田を訪れた東京の銀行員を前に語る。
「神戸の方々阪神大震災があって大変だな。かわいそうだなって思ったんだけども私達が災害に遭うとは思わなかったんですよ。でもその結果がこうだったんです。」
会場では、釘子さんの話しを聞き、すすり泣く人も。
 

語り部として、多くの県外の人々に震災の事実を伝え、真実を感じ取ってもらいたいと日々活動する釘子さん。ガイドの最後は必ずこう締めくくる。

「同じ思いを皆さんにはして欲しくない。だから自分の町の避難所を見直して下さい。家族を守るためにも、恋人を守るためにも」
「そういった事が実はここで 亡くなった方々の一番の 供養なんです」
変り果てたふるさとで、ここで起きた「悲劇」を多くの人に語り続ける釘子さん。
一人一人の「防災意識」を高める事。それを自らの使命だと考えている。いつ起こるか分からない次の災害で一人でも多くの命を守るために。
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