二度と過ちを繰り返さぬよう、後世に正しい歴史を伝えなくてはならないと、戦災史の研究に心血を注ぎながら、津波の犠牲になった男性がいます。

釜石市の郷土資料館です。ここに、ひとりの郷土史研究家が遺した資料が展示されています。展示されているのはほんの一部。その数は艦砲射撃の資料を含めておよそ4000点にも及びます。どれも釜石の歴史を伝える上で貴重な資料です。
これらの資料は、去年の津波により83歳で亡くなった郷土史研究家の昆勇郎さんの遺族が市に寄贈しました。図書館長や「鉄の歴史館」の館長を務め、仕事の上でも郷土史に深く関わってきた昆さん。
特に研究に執念を燃やしていたのが、艦砲射撃に関わる戦災史でした。昭和20年の夏。釜石は二度にわたって、連合軍の艦隊による艦砲射撃を受けました。犠牲者は750人以上と記録されていますが、正確な数は今もって分かっていません。当時14歳だった昆さんの弟の成忠さんも犠牲になりました。この悲しい出来事が昆さんを戦災史の研究に没頭させることになります。
「釜石に戻ってきて惨状を見て、かなりショックを受けたと思うんですが、弟が中学生か、そこらかな?大きなショックを受けて、そんなことで、いろいろ調べ始めたと思っています。」(長男 昆 秀光さん)

戦後30年が過ぎた昭和51年。釜石市は「釜石艦砲戦災誌」を発行しました。

昆さんは編纂委員会の事務局員として、特に犠牲者の確定に心血を注ぎました。
「実際のところ、何人亡くなったというのは分からない状態なんですが、自分が調べなきゃならないということで、ひとつひとつお寺を回ったり、1軒1軒、遺族の家を回ったりして、いろいろ聞いて回ったんじゃないかな。」(長男 秀光さん)
市内のお寺に残されている昭和20年当時の過去帳です。艦砲射撃が行われた7月14日と8月9日に、多くの人の名前が記されています。昆さんは釜石だけでなく、大槌町や山田町の寺も回って、残された記録をひとつひとつ調べていきました。釜石は、津波や戦争などの災害に襲われるたびに、歴史の資料も失われました。昆さんの研究成果は、釜石に残された数少ない貴重な資料です。
「釜石というのは、今回の津波もそうですけど、戦災という形で、昔の状況を知る手がかりというのが非常に少ない、焼けてしまったりして、残っていないんですね。そういった中で、これだけ集めていてもらったということは、奇跡といってもいいくらいのことだと思いますし、今回の津波からも残っていてくれたことは、ある意味、昆さんのそうした思いが残してくれたのかという気がしないでもないです。」(郷土資料館 佐々木寿館長)

昆さんは郷土史研究の一方で、戦争の「語り部」でもありました。

戦争の悲惨な体験を昆さんとともに語り継いできた千田ハルさんは、同じ時代を生きた大切な語り部を失ったことへの寂しさを話します。
「いっしょにいろいろ体験、同じ時代を生き抜いて、ひとつ戦争をこれからぜったい無くそうって、そういう思いで繋がってきた人たちも、続々と亡くなってしまってね。私、とっても残念で寂しくてね。」(千田ハルさん)
昆さんと妻のキミさんが津波の犠牲となった自宅の壁には、生前、昆さんが講演のたびに、よく引用したという言葉が掲げられています。

『歴史は過去のげい語に非ず 現代の警策にして 未来の指針なり』

 看板は父が遺した言葉に心を動かされた長男の秀光さんが去年5月に作りました。
「歴史って言うのは大事にしなきゃなんないんだなぁと、歴史が全てを物語ってるんだなと感じましたね。」(長男 秀光さん)
【この記事の動画はこちらから】

過去に起きたことは、未来にも起こりえる。

津波がそうであったように、戦争も、そうかもしれない。戦争を生き延び、津波の犠牲となった郷土史家が最後に遺した言葉の意味を、私たちはしっかりと胸に刻む必要があります。

<前へINDEX次へ>
県内のニュースを、いち早く、分かりやすくお伝えします。
【放送日時】 月曜日~金曜日 18:15~18:55
【キャスター】 照井 健、甲斐谷 望、松原友希、浅見智

>>ご意見・お問い合わせ